LOGIN「いいか、一列に並べ。これから後宮に入るからな」
蘭《らん》小蝶《こちょう》を下女として買い取った男が、しゃくるようにして顎で合図を送る。 男は、小蝶だけでなく複数の女を買い取ったようだ。 いちように項垂れている女に混じり、小蝶は一番うしろに並ぶ。小蝶は、元宰相の父を持つ。
後宮への一般的な知識はあった。 後宮のトップは皇太后。次いで皇后。 その下に、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃の四夫人が上位にいる。 2年前の政変で、後宮の顔ぶれも一新されたそうだ。 政変で父の玄徳が朝廷から締め出されたので、新しい後宮の妃賓は分からない。小蝶《こちょう》のつく仕事は、下女だ。
妃賓付きの侍女、女官、宮女たちは、皇帝の手がつく可能性がある。 しかし、下女は宮女の下。 仕事は、皇帝のいない間に掃除や洗濯をすることであって、皇帝の前には顔を出すこともない。 最低限のものしかもらえないが、実家で食い扶持を増やすよりいい。 そんな下女でも、月々の給料は宦官《かんがん》から実家に送ってもらえる。 宦官――男性としての機能を失ったものたちは、後宮に必須だ。 後宮に足を踏み入れていいのは、皇帝と親王(皇帝の男家族)だけだ。 妃賓の親族も入ることはできるが、妃賓の宮だけだ。他の場所には出歩けない。そんな下女にも、ランクがある。
上から、上級下女、中級下女、下級下女となっていて、他の宮女や女官たちとは服装ですぐに見分けがつく。 宮つきになれば、宮の名前や貴色のイヤリングを下賜される。 小蝶がなるのは、当然下級下女だ。 目をかけらたとして、せいぜいが中級下女で宮付きは理想だろう。 「ほら、ここから入れ。あとは太監(宦官のこと)の仕事だ」 みすぼらしい小さな扉を潜ると、宦官が複数待ち構えていた。 手には、生成り色の簡素な長衣をいくつも抱えている。 下級下女の制服だ。小さな建物に、小蝶たちは押し込められて着替えを促された。
小蝶がきていた服も、元は使用人の下女の服だ。 着替えてみると、新品なだけあって薄茶の制服のほうがしっかりしていた。 袖は短めで動きやすい。 腰に幅広の布帯に、茶色の小さな前掛け。 髪は低い位置で一つ結び。髪飾りはなし。 裾や袖に装飾なしのシンプルなものだ。「着心地がいいわ……久しぶりに新しい服をきたわ」
思わず、小蝶が呟いた。 とても名家の生まれの姫とは思えない意見だ。 政変で玄徳が無職になってからは、綺麗な服は全て売り払った。 小蝶としても、これは真面目な感想だった。「いいか、これから浣衣局(洗濯担当)、洒掃所(掃除担当)花木房(庭仕事担当)に振り分けていく。何かあれば、この高《こう》徳全《とくぜん》に申せ」
発言した宦官、徳全《とくぜん》はもし本当に発言したら許さないという目をしていた。 後宮の、しかも下女の案内を任されるくらいだ。 太監の中でも、位が低いのだろう。 不満そうにしていたが、10人ほどの下級下女をざっくり分けていく。 小蝶は、花木房(庭仕事担当)に回された。 実家の農作業で、庭仕事には慣れている。 小蝶は、不満も言わずに頷いた。「あれは……もしや、蘭家の小蝶さまでは……?」
医局から、薬草を摘みに出た医官が新米の下級下女を見て足を止めた。 医官の名は、金《きん》 仁雷《じんらい》。 元宰相だった蘭家とは、親しい付き合いだった。 4年前に小蝶に婚約者が出来てから、足が遠のいたが小蝶の美貌を見間違うはずがない。 「あぁ……医官としての勉強ばかりで、没落されてからはお伺いしなかった……こんなことになったいるのだったら、なにがなんでもお役にたったのに……」 心を痛める仁雷は、かつての華やかな小蝶の思い出があった。甘やかな美貌、陶器のような肌。
花のような笑み、優雅な仕草。 まさに名家の姫として、ふさわしい言動。「そうか……後宮にこられたのだから。私が少しでもお役にたたねば……」
小蝶に恋をした気持ちが、再び沸き上がる。 手から飛び立っていた蝶が、再び手の届くところへと舞っているのだ。 今度こそ――手を離さない。「美しいのに、まがまがしいのはどういうことかしら……」 蘭《らん》小蝶《こちょう》は、担当する区域の水連宮の掃き掃除をしていた。 桜はよく咲いているが、色がどこか毒々しい。 ――それに、後宮の中のどこもかしくも……。 邪気が強い。 名家の蘭家は、系譜をたどると玄耀天君という破邪の神に繋がるという。 父の玄徳《げんとく》も、小蝶も、この破邪の力を持っていた。 むしろ、代々宰相の職につけていたのは、この力のお陰でもあった。毒を見抜き、呪いを見抜き、よこしまな気持ちのものを遠ざけて玉座を守る。 清廉な政治と君主を維持するための、装置としての仕事だった。 しかし、それは呪いの皇太后、金佳《きんか》によって遠ざけられる理由になったのだが。 もし、蘭家に息子がいれば殺されていただろう。下女たちの居住区から下級妃賓の元にくるまでの道で、玄耀天君の銅像が壊されていたのも気になった。 太祖神から、戦神まで色んな神がいるが、玄耀天君は破邪の神として人気のある神だ。 それが、像が壊されていて直させる気配もない。 そして、小蝶の視界には後宮そのものが激しい邪気で固まって見えた。桜の木に手をあて、小蝶は自らの気を送り込む。 まがまがしい桜は、すぐに清廉な気を放った。 風がないのに不吉なばかりに散る花びらも、しんと止む。 そうして、担当区域の宮の桜の邪気を沈めて歩いていた小蝶は、ふと宮の中が気になった。 「あれは……?」 小蝶の目に間違いがなければ、あの花瓶は翡翠滴翠瓶《ひすいきすいへい》という名品だった。 父がまだ宰相だった折りに、色んな名家の招待を受けていて小蝶はかなりの目利きだ。 幼いころ、宮中の宝物殿でも色々学ばされている。「何故、下級妃のところに……」 使うならば、かなりの高官か四夫人、皇帝陛下が使っていてもおかしくない。 よほどの寵愛でもあるのだろうか。 しかし、宮にはひとけがない。 妃と侍女くらいしかいないのだろう。 そして、妃は一人で出歩くことはない。侍女が付き従う。 下女が掃除しているわけでもなし、これだけの花瓶が贈られるのならば、もっと上の妃になっているはずだ。花瓶に夢中になっている小蝶は、背後に一人の影が近づいていることに気が付かなかった。 「なにか面白いものがあるのか?」 低く甘い声が、小蝶にかかる。
「ふむ……なかなかわらわの好みの毛皮じゃ。まさか、わらわへのプレゼントがこの毛皮だけではあるまい?」 「はは……些少ですが、この金の塊を……」 皇太后の宮では、毎日のように賄賂が送られている。 皇太后、魏《ぎ》 金佳《きんか》は、満足そうに官吏が持ってきた金を見やった。 「わらわの名前にあやかった金かえ。確かにこの重みは満足じゃ。そなたにはこの香炉を贈ろう」 「ははっ……ありがき幸せ」 「きちんと使うのじゃよ? しまい込むようなことをしてはならん」皇太后、金佳はご機嫌で笑う。 しっしと手を振ると、賄賂をわたした官吏は下がっていった。 「香炉を使って、もっともっと邪気を取り込め……!」 金佳に付き従う筆頭侍女も、女官も、表情はない。 魂をなくしたカラクリのように、ただただ金佳の命令に従う。 「朝廷も、後宮も、わらわの邪気で満たそうではないか……! わらわに逆らうことなど出来ないように……!」 賄賂を贈る官吏や妃賓には、金佳は必ず返礼していた。 香、香炉、化粧水、鏡、墨、硯《すずり》、土瓶、水がめ……品は多岐に渡ったが、どれも皇太后の呪いの力がこもった品だった。 使えば使うほど、邪気に魅入られ金佳の言いなりになっていく。 誠実なものも、清貧なものも、金佳の贈り物を受け取ったものは、どんどんと魔に魅入られる。2年前まで、金佳は妃のひとりに過ぎなかった。 息子を二人産んだのだが、元は商家の生まれ。 四夫人にもなれないまま、皇后の産んだ王子の竜我《りゅうが》陛下の御代だった。 長男の月牙《げつが》は武官の道へ行き、足の悪い青祥《せいしょう》は文官へ。 金佳は、ある男から禁術を教わって、若き皇帝と皇太后へ邪気と毒をせっせと送った。 閑職に追い込まれているが、実家が裕福な官吏にも邪気を含んだ品を送り続けた。竜我皇帝は、崩御。 あとに続いて、当時の皇太后も亡くなった。 そして四夫人たちも、不自然なほど息子だけを失くしていた。 先々代の皇帝の血を引くのは、金佳の息子、二人だけ――。 長男の月牙を皇帝にする話は、するすると進んだ。 反対した宰相の蘭《らん》玄徳《げんとく》は、周囲の官吏を操ってクビに追い込んだ。 こうして、先々代の妃に過ぎなかった金佳が皇太后となり、息子の月牙が皇帝となった。「風呂を用意しや」 「かしこまり
「いいか、一列に並べ。これから後宮に入るからな」 蘭《らん》小蝶《こちょう》を下女として買い取った男が、しゃくるようにして顎で合図を送る。 男は、小蝶だけでなく複数の女を買い取ったようだ。 いちように項垂れている女に混じり、小蝶は一番うしろに並ぶ。小蝶は、元宰相の父を持つ。 後宮への一般的な知識はあった。 後宮のトップは皇太后。次いで皇后。 その下に、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃の四夫人が上位にいる。 2年前の政変で、後宮の顔ぶれも一新されたそうだ。 政変で父の玄徳が朝廷から締め出されたので、新しい後宮の妃賓は分からない。小蝶《こちょう》のつく仕事は、下女だ。 妃賓付きの侍女、女官、宮女たちは、皇帝の手がつく可能性がある。 しかし、下女は宮女の下。 仕事は、皇帝のいない間に掃除や洗濯をすることであって、皇帝の前には顔を出すこともない。 最低限のものしかもらえないが、実家で食い扶持を増やすよりいい。 そんな下女でも、月々の給料は宦官《かんがん》から実家に送ってもらえる。 宦官――男性としての機能を失ったものたちは、後宮に必須だ。 後宮に足を踏み入れていいのは、皇帝と親王(皇帝の男家族)だけだ。 妃賓の親族も入ることはできるが、妃賓の宮だけだ。他の場所には出歩けない。そんな下女にも、ランクがある。 上から、上級下女、中級下女、下級下女となっていて、他の宮女や女官たちとは服装ですぐに見分けがつく。 宮つきになれば、宮の名前や貴色のイヤリングを下賜される。 小蝶がなるのは、当然下級下女だ。 目をかけらたとして、せいぜいが中級下女で宮付きは理想だろう。 「ほら、ここから入れ。あとは太監(宦官のこと)の仕事だ」 みすぼらしい小さな扉を潜ると、宦官が複数待ち構えていた。 手には、生成り色の簡素な長衣をいくつも抱えている。 下級下女の制服だ。小さな建物に、小蝶たちは押し込められて着替えを促された。 小蝶がきていた服も、元は使用人の下女の服だ。 着替えてみると、新品なだけあって薄茶の制服のほうがしっかりしていた。 袖は短めで動きやすい。 腰に幅広の布帯に、茶色の小さな前掛け。 髪は低い位置で一つ結び。髪飾りはなし。 裾や袖に装飾なしのシンプルなものだ。「着心地がいいわ……久しぶりに新しい服をきたわ」 思わず、小蝶が呟
「お父様、わたくし後宮にまいります」 蘭《らん》小蝶《こちょう》は、凛とした声で言い放った。 かつては、元宰相として豪華だった家――それが今は。 宝石や金細工のものを筆頭に、家財のほとんどが剝ぎ取られ、見る影もない。 「小蝶、しかし、それは……」 おろおろと、父の玄徳《げんとく》がいさめる。 後宮にいけば、滅多なことでは外に出られなくなる。 「おねえさま……」 「鈴鈴《りんりん》、あなたはこの蘭家の跡継ぎとして頑張るのよ。今は、よく食べて大きくなること。もう少し大きくなったら、勉強に刺繍、楽器を学ぶのですよ」 未だ5歳の妹は、痩せた体で大きな涙をためた。 2年前の政変で、玄徳は左遷され、家財は売り払った。 もう、家族3人が食べていける食料も少ない。 使用人も、皆、暇を出した。 残ったのは、玄徳が買っていた本ばかり――しかしそれも、今後生きていくために売り払っていくのだろう。 「わたくしが差し出せるものは、もうこの体しかありませんもの」 妓楼に売って、妓女として生きていくことも考えたが、後宮の下働きならば肉体労働ですむ。 「宮女《きゅうじょ》になるわけではありません。幸い、政変の際に婚約も流れましたし」 後宮とひとことで言っても、全員が皇帝陛下の女ではない。 宮女は、妃賓《ひひん》とそれに仕える女官や侍女なども含むが、小蝶が行くのは宮女ではなく一番下の下女だ。 「確かに、政変で何もかも変わった……陛下が変わられて皇太后さまも新しく擁立された……しかし、私が下級官吏の職でも得れば……」 「しかし、政敵たちに阻まれてそれも不可能なのですから」 玄徳は項垂れた。 妻は縁を切って、実家に帰った。 今は裕福な商人の妻だという。 今なんとか食いつないでいるのは、庭に植えた野菜と薬草のお陰だ。 しかし、着替えにすら困る状況で、次女の鈴鈴はどんどんこれから大きくなる。 服も、食べ物も今よりさらに必要になる。 小蝶も玄徳も、今着ているのは元使用人の服だ。 歩揺(髪飾り)も、かんざしもない。 なにもかも、売り払った。 あと、小蝶に出来るのは後宮の下女になることだけだ。 元とはいえ、名家の蘭家のものとして。 目指すのは、上級下女だ。 そうすれば、多少は給金を実家に送ることが出来る。 少なくとも、小蝶がいなくなって食い扶持







